徳川家康と豊臣秀吉といえば、戦国時代の主役といえる二人です。
その二人の息子として数奇な生涯を送ったのが、結城秀康です。
今記事では、結城秀康の生涯とエピソードについてご紹介します。
今記事を読むことで、結城秀康の人間性や、弟で二代目征夷大将軍である秀忠との関係性についても知ることができますので、ぜひ最後まで読んでみて下さい。
結城秀康の生涯
まずは結城秀康の生涯についてご説明します。
一時は家康の後継になる可能性もありましたが、生涯に渡り、一度も徳川の姓を名乗ることはありませんでした。
徳川家康の次男として誕生
結城秀康は徳川家康の次男として誕生します。
母は家康の側室のひとりである「於万の方(おまんのかた)」です。
結城秀康は幼名を於義伊(おぎい)と名付けられました。
家康の正室である築山殿が、正室としての権利で、於万の方に家康の子供を妊娠することを承認していなかったために、妊娠発覚後に於万の方は浜松城から追い出されてしまっています。
そのため、家康は於義伊(おぎい)を正式な子供として認知することはできませんでした。
またこの時、於万の方は双子を産んでおり、もう一人の子供が後の永見貞愛(ながみさだちか)とれています。
当時双子は「犬畜生と同じ双子腹」と忌み嫌われていたため、永見貞愛は於万の方の実家である永見家に預けられ、そのまま永見家の人間として育てられました。
子供時代
於義伊(おぎい)が5歳のときに、長男の松平信康が武田勝頼と密かに通じているという疑惑で切腹させられます。
このとき信康の母であり、正室の築山殿も家康の命で殺害されてしまいます。
築山殿が死去してから、於義伊(おぎい)は正式な家康の子として認められます。
また、長男が死去した時点で、順番からいえば於義伊(おぎい)が家康の子供の中で最年長ということとなり、家康の後継となっても不思議ではありませんでした。
豊臣秀吉の養子に
信長の死後、1584年に秀吉と家康の両雄がぶつかった小牧・長久手の戦いでは、戦には勝利をしたものの、秀吉方の調略により、徳川方の織田信雄(おだのぶかつ)が勝手に和睦を結んでしまいます。
和睦の条件として、於義伊(おぎい)は秀吉の養子としては豊臣家に送られることとなりました。(秀吉の養子といっても実質は人質)
秀吉の養子となったことで、家康と秀吉から一文字づつもらい羽柴秀康(はしばひでやす)と名乗るようになります。
武勇に優れた武将として活躍
14歳のとき、豊臣家の武将として九州征伐で初陣を果たすと、その後も多くの戦に参加して武勇を上げました。
秀康は体が大きく、性格も豪胆であったと伝わっています。
1589年に、秀吉に実子の鶴松が誕生すると、秀康は他の養子と同様に他家に出されることになります。
秀康は北関東の大名結城氏の婿養子となり、以降は結城秀康と名乗ることになりました。
34歳の若くして夭逝
結城家を継いで、大名となった後も小田原征伐や、文禄・慶長の役、文禄・慶長の役にも参加しました。
最終的には越前国北荘68万石の大大名となっています。
しかし体を悪くし、34歳で若くして夭逝しています。
死因は梅毒とも、胃や消化器官のガンとも言われています。
結城秀康のエピソード3選
ここからは結城秀康の人間性や、異母弟である秀忠との関係が分かるエピソード3選をご紹介します。
血筋もプライドも一流
秀吉の養子時代、伏見の馬場で秀康が馬を走らせてると、秀吉の家臣が競争心から馬を並べて並走してきました。
養子とはいえ、主君の子である自分に馬を並べて走ることは無礼として、秀康はこの家臣を無礼打ちにしてしまいました。
ことの詳細を聞いた秀吉は、「自分の養子に無礼を働くということは、自分に無礼な行為をしたことと同義である」と言って無礼打ちを許しました。
さすが二人の天下人の息子ですね。
血筋だけでなく、プライドも超一流のようでした。
天下人も兄には気を遣っていた
二代将軍である秀忠は、異母兄の秀康に気を遣っていたというエピソードがいくつか残っています。
秀康は幕府の権力を誇示し、大名の力を削ぐ目的で行われていた参勤交代も別格の待遇を受けていました。
あるとき、秀康が別格の待遇を受けていることを知らなかった碓氷峠の関守が、秀康の大名行列が鉄砲を所持していたという理由で止めます。
そのことを無礼として関守を無礼討ちしてしまいました。
このことを知った秀忠は、秀康を罪に問うことなく不問としたといいます。
また通常あり得ないことですが、秀康が江戸に赴く際に、秀忠自らが途中の宿まで迎えに出向き、秀康の行列を追い越さないように後を付いて歩いたというエピソードも残っています。
天下人も兄に対しては、最大限の配慮をしていたことが分かります。
父 家康との関係
秀康は幼少期、正室の築山殿との関係を重視した家康に正式な子供として認知してもらえませんでした。
しかし、長男の信康との嘆願により3歳のときに初対面を果たしています。
その後は、豊臣家に秀康を送っていますが、天下分け目の関ヶ原では上杉への抑えを任せています。
親子としての関係値は他の子供と比較すると少ないですが、武将としての力量は高く評価をしていたようです。
家康の正式な後継者を決める際には、重臣の本田正信は武勇に優れた秀康を推しています。
まとめ
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