伊達政宗
政宗の晩年
戦国時代に東北で一大勢力を築き「独眼竜」と恐れられた伊達政宗。
もう少し生まれてくるのが早かったら、天下を獲れるかもしれなかったと言われています。
戦国時代が終わってからの、武将達の晩年はあまり知られていませんが、政宗の場合はどうだったのでしょうか?
政宗の晩年は毎朝数時間トイレで夕飯の献立を考えるという生活スタイルだったようです。
トイレといっても、今の私達が使っているよりも広いスペースで寛げたようですね。
そして何人かの家臣を招待して、一緒に夕飯を食べるというのが習慣でした。
めちゃくちゃグルメ!
毎日の夕飯にかける気合が違います。
また政宗も自ら料理をしていたという資料もあります。
政宗の晩年に関してはこんなイメージを持っている方も多いと思いますが、意外にも夕飯の献立と、誰を招待するかに頭を悩ませる充実した日々だったのかも知れませんね。
島津義弘
西軍の理由
戦国最強といえば、まず島津が浮かぶ人が多いでしょう。
関ケ原においては、合戦には加わらず、戦の勝敗が決まると東軍の軍勢を蹴散らして領地に帰って行ったことが有名です。
そもそもなぜ島津は西軍として戦うことになったのでしょうか。
関ケ原が始まる前に、戦国最強の島津を味方に付けたいと当然両軍から勧誘がありました。
京都にいた島津義弘は当初は東軍として戦う意志を持っておりましたが、東軍に参加するために伏見城に向かうとまさかの「入城拒否」を食らってしまいます。
入城拒否の理由は伏見城を守っていた鳥居元忠に西軍と通じていると疑われたためですが、そうこうしている内に関ケ原の合戦が勃発してしまい、なし崩し的に西軍として戦うことになったのです。
これは事前に東軍と密な連絡を取り合えていれば防げたことのように思えますが、島津軍は他軍とのコミュニケーションを取るうえで大きな弊害を持っていました。
それは“方言”です。
実際に戦になる前に義弘を味方に取り込もうと、家康は島津の屋敷を訪れて二人きりで話をしますが、方言のせいでうまくコミュニケーションが取れません。
コミュニケーションが取れないのでは、交渉上手の家康も交渉どころではありませんね。
このように方言によってコミュニケーションが取れないばかりに、自然京都でも島津屋敷は孤立しやすく、合戦前の情報戦においては劣勢に立ってしまいました。(逆に方言が他国の人間が聞き取れないことで、機密が漏れにくいというメリットもあります。)
田舎は強さのバロメーター?
ハングリー精神のある人は強い。
これはいつの時代も同じだったようで、甲冑の装備が粗末な軍ほど強いということが多々あったようです。
当時兵士が強いと言われたら島津や長曾我部はその代表格です。
この伝統?は明治維新を迎えて、軍隊となってからも続きます。
日露戦争では旅順攻囲戦の主力となった第六師団は九州を中心に編成をしており、陸軍最強とされる第九師団は北陸を中心に編成されていました。
逆に東京を中心とした第一師団、大阪を中心とした第二師団は最弱の師団とされました。
やはり軍隊としては良い暮らしをしているシティーボーイズたちよりも、食うや食わずの進軍にも絶えて、命知らずな田舎の男たちのほうが頼りになったのでしょう。
徳川家康
実は短気だった家康
「鳴かぬなら、鳴くまで待とう時鳥」で有名な家康ですが、実はめちゃくちゃ短気だったようです。
有名な話では武田信玄が自城を素通りしたことに腹を立てて、すぐに出撃して追いかけますがあえなくコテンパンに…。
このときの悔しさを忘れないために、絵師に情けない自身の姿を描かせました。
これ以外にも、少年時代にはきらいな家臣を縁側から蹴り落とすなど短気さが分かるエピソードが残っています。
逆に信長は跡目争いで弟側についた柴田勝家を重用し、謀反を起こした松永久秀には名器の茶器を差し出せば許すという条件を提示する寛大な一面もあります。
なので「鳴くまで待とう時鳥」は三傑の性格を表しているというよりも、短気である自分を抑えて抑えて、天下を獲るチャンスを伺った家康の我慢強さを示しているという方が正確でしょう。
狸おやじ
家康は通称「タヌキおやじ」と言われています。
これは人心掌握に長けた長所と、ずる賢さを嘲るアダ名です。
このタヌキおやじさが存分に発揮されたのが大阪冬の陣です。
大阪城に大砲が打ち込まれると、淀殿を中心とした場内の人間がどよめき怖気づいて平和調停に応じます。
これは大阪城の外堀を埋めるというものでしたが、調停に違反して内堀まで埋めてしまいます。
これによって、最強の要塞であった大阪城の守備力がほとんど無力化してしまいました。
約束を平気で破る東軍の行動を家康に抗議すると、信じられない言葉が返ってきます。