正岡子規は明治時代に活躍した俳人です。司馬遼太郎の小説、坂の上の雲の主人公の一人としても有名です。今記事では正岡子規について、人間性が分かるエピソードをご紹介致します。
略歴
参照:weblio辞書
1867年に愛媛県松山市に松山藩士の子として生まれます。
父が早逝した為、5歳で家督を継いでいます。祖父は儒学者の大山観音、叔父は明治から大正時代外交官・政治家として活動した加藤恒忠です。幼い時より祖父の大山観音の私塾に入り漢学を学びました。
その後、当時最先端の学問を求めて上京、旧藩(松山藩)の給費生となっています。
現在の東京予備門(現在の東京大学)に在学中に俳句の魅力に取りつかれ、東京予備門を中退。
新聞記者として働く傍ら俳句や短歌など研究と創作を続けましたが、持病の結核から脊髄カリエスを発症し、35歳の若さで亡くなっています。
若い時より闘病生活をしながらの活動を行っており、これは亡くなるまで続きました。古い俳句・短歌を再検証し、多くの弟子を持って現代にも続く俳壇の中興の祖となり、大きな功績を残しました。
怖がりだった幼少期
正岡子規の本名は正岡常規(つねのり)、幼名は升(のぼる)といいます。
幼少期はとても怖がりで、能を観に行くと太鼓の音が怖くて泣いてしまったり、子供同士で喧嘩になった際は決してその喧嘩には混ざらず家に逃げ帰ってしまうような子供でした。
祖父の大山観音の言いつけで、小学校に入ってもまげを結い、脇差を差していたため、周りの子供たちからは「まげ升」とあだ名されました。
言いつけの為従ってはいたものの、旧来の格好をすることは幼心に嫌であったようです。
しかし小学校に入る前に、大山観音自らの手で漢学を教えてもらったことは幼少期の子規にとって幸運でした。
色んなことに熱中した学生時代
松山中学にはいると漢詩に夢中になり、学業も優秀でした。
このころより子規の周りを巻き込みながら、興味のあることに対して没頭していくというけらいが現れてきます。
また提案好きで、喧嘩は弱いながらも何事にも大将になりたがったようです。
その為、中学生の頃から学業以外にも様々な事に挑戦しました。自分が編集長となり、仲間と新聞を発行したり、雑誌を作ったりしています。
中学生高学年になると自由民権運動に熱中し、往来で言論の自由について語りました。ただ自由民権運動に関しては、特に信念があって行っていたことではなく、流行っているのだからとりあえずやってみようということだったようです。
東京での学生時代
なにをするにしても東京に行かなくてはならない、当時の上昇志向の高い若者達にとってこの考えは共通認識としてありました。
もちろん子規もその例外ではなく、叔父に頼んで上京させてもらい共立学校(今の開成高校)に入学しています。その後受験勉強をして東京予備門(現在の東大教養学部)入学しました。
当時の東京予備門は大変なエリート学生だった訳ですが、子規は英語が苦手な為、もう一年勉強をしなくてはいけないと本人も周りも考えていたようですが無事に合格しています。
この時の共立学校と東京予備門の同級生には、後に進んだ分野において日本を背負って活動していく者が多くいました。
因みに子規は評論好きで、雑記で友に勝手に評論を付けています。
秋山真之…松山からの幼馴染で、竹馬の友といえる間柄。お互いに立派な文学者になろうと誓い合ったこともあります。東京予備門時代には同じ下宿に住み、一緒に鎌倉に無銭旅行にも行っています。後に東京予備門を中退し、海軍に入隊。ロシアのバルチック艦隊を破る作戦を立案しました。子規の雑記には「わが剛友」と記載されています。
米山保三郎…哲学者。学生時代から哲学に関する知識に優れていて、子規に哲学者になることを諦めさせました。29歳で早逝。
夏目漱石…明治の文豪。子規の生涯の親友です。子規の最も有名な「法隆寺」の句も、漱石の句に対しての返礼。
南方熊楠…明治~大正を代表する生物学者。共立学校を中退してアメリカ・イギリスなど世界各国に渡り研究を行った。日本で初めて科学誌「ネイチャー」に掲載される。自然保護活動の先駆け的存在でもある。
予備門時代の子規情熱は哲学→文学(小説)→俳句に移ってゆきます。野球は終生の趣味となり、ベースボールを野球、バッターを打者、ストレートを直球とねど訳を付けたのは有名です。英語が苦手な為、留年をしてしまいますが、俳句・短歌への情熱が高まり予備門を中退します。この時すでに結核が発病しており、残りの人生で後世に残せるようなものを成したかったのだろうと考えられます。
闘病しながらの創作活動
新聞記者になった子規は、たっての希望で従軍記者として日清戦争後の戦場を取材をしています。
しかし結果的には、結核を悪くしてしまうことになります。
残りの寿命が短いと感じた子規は猛烈に創作活動・研究活動に打ち込みます。
特に病気が酷くなり松山に帰ってからは、俳句を多くの人間に伝えるために積極的に人を呼んでは俳句を教えていました。
このような流れで自然弟子も集まり、川東碧梧桐や高浜虚子等の弟子を育て、現在の俳壇の中興の祖となりました。
因みに病気になってからも子規の食欲は衰えることはなく、人一倍食事を取りました。
特に甘いものが好きで、何時間も作業をして疲れても、お菓子を食べると頑張れるという人だったようです。
まとめ
如何だったでしょうか。今記事では“俳人”正岡子規よりも、“人間”正岡子規が理解出来るようなエピソードを中心にご紹介させて頂きました。個人的に教科書に載っているスキンヘッドの写真からは、情熱的で快活な子規の人間性がなかなか伝わりづらいなあと思い作ってみました。最後までお読みいただきありがとうございます。