織田信長といえば「戦国の覇者」というイメージが強いですが、かなり商売が上手なカリスマ経営者でもありました。
信長の強い軍隊は、商業による豊富な資金力があってこそだったのです。
鉄砲の伝来はテストに出ますが、実生活では活かすには難しい知識です。
今記事では現在のビジネスにも通じる信長の経営戦略についてご紹介させて頂きます。
織田信長の政策と斬新な経営手法
お城を要塞からシンボルに
信長はお城の役割を変えました。
戦国時代において要塞としての役割を担っていた城を、商業都市のシンボルにしたのです。
信長以前城を建てる場所は、攻めにくい険しい山の頂上に城を建てるのが普通でした。
しかし信長は城下に商業地区(城下町)とつくることを前提にして、平地に城を築きました。
そうすることで城下町に人が集まりやすくしたのです。
また楽市楽座や関税の撤廃を行ったことにより、商業の発達を促進させます。
平城(平地に築かれた城)の代表的な城が安土城です。
安土は交通の要所でもあったので、天下取りを狙うには絶好の土地です。
安土城は豪華絢爛な作りで、ヨーロッパからきた宣教師たちが驚愕したほど、世界でも類を見ない建造物でした。
諸大名や、外国からの使者、商人や農民に至るまで安土城を見せることで信長の権威の大きさを理解させることができます。
また料金を払って安土城を見学するツアーを開催し、観光業としても収益を得るビジネスも行ってたようです。
そして信長は当時の戦国大名のなかで珍しく、戦略的に何度も居城を変えました。
自らが引っ越して、開発事業を行うことで居城の城下町を発展させたのです。
現在のディベロッパー(土地開発)としての役割も担っていたのです。
官位は要らない、商売がしたい
商業によって得た資金力で朝廷の後ろ盾をした信長は、官位を打診されますがこれを断ります。
そして官位の代わりに堺・大津・草津の支配権を朝廷からもらいました。
境は当時経済の中心地と呼べるほど栄えた都市であり、鉄砲生産が盛んな工業都市でもありました。
また大津は琵琶湖からの水路による物流の拠点、草津は陸路の交通の要所でした。
このように経済と交通の要所を抑えることで、諸大名にプレッシャーをかけることができるようになります。
戦になる前に言うこと聞かない土地には、経済制裁を加えて物資が届かないようにすることができるようになったのです。
このことでも信長軍は戦の強さだけでなく、経済戦争においても最強の軍団であったことが分かります。
官位ではなく、現実的に役に立つ土地をもらい受けるところが、リアリストの信長らしさが出ていますね。
ビジョンの共有
組織が大きくなっていくと、ビジョンやトップの掲げる理想が重要になります。
なぜなら、明確なビジョンを共有することで、入れ替わりの激しい大組織であっても、足並みを揃えることができるのです。
現在世界経済の中心であるGAFAMを例にとってみると、グーグルは「1クリックで世界の情報へアクセス可能にする」、アマゾンは「顧客第一」というビジョンを掲げています。
信長の場合は「天下布武」を掲げたことで、力により天下を収めるというビジョンをはっきりと示しました。
家臣団は「天下布武」という信長のビジョンを共有することで、結束を強めたことでしょうし、諸国からビジョンに共有する人材も集まったのです。
ビジョンの共有が徹底されていないと、組織は大きくなってくにつれて身動きが取れなくなり、組織自体が空中分解してしまう危険性が高まります。
最後は部下による裏切りにあってしまった信長ですが、現代においてもリーダーが担う最も重用な役割もバッチリこなしていたことが分かります。
織田信長のラグジュアリー戦略
領地か茶器か
ラグジュアリー戦略とはブランドに絶対の価値を持たせるビジネスモデルです。
ラグジュアリー戦略はLVMH(ルイヴィトングループ)がはじめ、1980年代後半から注目をされるようになります。
現在ではエルメス・グッチ・フェンディなど多くのラグジュアリーブランドがこのビジネスモデルを確立しています。
あえて小数の生産に抑えて価値を生むラグジュアリー戦略に対して、日本は良いものを安く大量に生産することが得意です。
製造業が世界の中心産業であった1990年代前半まではそれで良かったのですが、ラグジュアリー戦略の分野ではヨーロッパの企業に後れを取っています。
信長は戦国時代において、茶器を買い占めることでその値を吊り上げました。(米を買い占めることで値を吊り上げる商人にも近いとも言えますが…)
そして褒美をだすときに、領地か茶器かを選ばせました。
当時信長の持っていた茶器には、一国一城にも匹敵する価値のあるものあったので茶器を選ぶ家臣も多くいました。
信長にとっても、領地は決まっているので、茶器が褒美になることはありがたいことであったでしょう。
信長はもしかすると日本の歴史上ではじめて、ラグジュアリー戦略の価値を理解していた人物かも知れませんね。