ブルース・リーといえば香港における不世出の英雄として、未だに愛されている映画俳優であり武術家です。
「アジア人の映画スター」、「本格的なカンフーアクション」、「相手を倒したあとの悲壮な顔つき」はどれをとっても当時のハリウッドにはない斬新なものばかりでした。
ブルース・リーの活躍は当時のハリウッドに風穴を空け、後のジャッキー・チェンやドニー・イェンなどの活動の土台を作り上げます。
今記事ではブルース・リーのバックグラウンドを中心に、俳優として活動するまでの軌跡を分かりやすくお伝えします。
幼年期
ドイツ人のルーツを持つ
ブルース・リーは5人兄弟の次男として生を受けます。
父は中国人の俳優、母はドイツ人と中国人とのハーフです。(イギリス人とのハーフという説もあります。)
後に映画と武術での活躍により、人種の壁を壊して、人と人を結びつけたブルースはですが、生まれたときからすでにアジアとヨーロッパの架け橋のような存在だったのですね。
「ブルース」という名前も、アメリカの市民権を取得しやすいやすいように、アメリカ式の名前が名付けられました。
子役として活躍
父親が有名な喜劇役者であったこともあり、生後3か月でスクリーンデビューを果たしています。
その後香港に帰国し、第二次世界大戦後に映画製作が再開されると、また子役として活動します。
子役として仕事をしながら、「詠春拳」の達人、葉門(イップマン)に弟子入りしカンフーの基礎を磨きました。
少年期
少年期はヤンキー!?
ブルースの少年期はケンカに明け暮れました。
売られたケンカはすべて買い、そのすべてに勝利しました。
幼いときから習っていたカンフーをこのときはケンカに使っていたわけですね。
ちなみに武術家になってからも、いつ・どこで・誰にストリートファイトを挑まれても買っていたそうです。
周りの人の証言によるとストリートファイトの戦績は生涯無敗とのことで、映画スターである前に最強の武術家であったことが分かります。
なんだか漫画の「バキ」のような話です…。
ヤンキーだけど、踊りの名人
ケンカに明け暮れる少年期を過ごしながらも、ほかにも熱中していることがありました。
それは「チャチャ」と呼ばれる社交ダンスです。
チャチャはキューバを起源とするラテン音楽のリズムに乗りながら踊るダンスです。
ケンカと社交ダンスとはふり幅が広いですが、チャチャの大会で優勝する程の腕前でした。
映画でチャチャを踊るシーンもあります。
100ドルだけ握りしめてアメリカへ
香港でも有名な「俳優の不良息子」となってしまったブルースは、18歳のときにケンカ相手に大怪我を負わせてしまいます。
取り巻きにヤクザものまでいたそうで、息子の将来を危惧した父親の決断によりブルースのアメリカ渡米が決まりました。
当座の金100ドルだけを持たされて、単身でシアトルに上陸することになります。
青年期
アルバイトをしながら大学を目指す
渡米したブルースは新聞配達のアルバイトをしながら、職業訓練学校に通って高校卒業資格を得ます。
ケンカに明け暮れた時代からは考えられない更生ぶりです。
その後ワシントン大学の哲学科に入学し、勉学とアルバイトの傍ら、駐車場などで無料でカンフーの指導をするようになります。
ブルースは勉強家で、生涯にわたって多くの本を読んで、様々な思想を取り入れました。
後に家族と住んだ自宅の本棚には、2千冊を越える蔵書があったといいます。
武術家へ
幼いときから身につけたカンフーの技術と、大学で学んだ哲学の思想を融合させて「ジークンドー」を生み出します。
盟友であるターキー木村(日系アメリカ人)の勧めにより、大学に通いながらシアトルに道場を開きます。
この道場は誰でも受け入れたため黒人やアジア人を始め、人種差別を受ける人々が多く集まりました。
差別と闘う人々にとって、哲学思想「ジークンドー」はただの武術ではありませんでした。
弟子が多くなったことで、大学を中退して道場経営に専念します。
結婚
1964年に道場の弟子であったイギリス人のリンダ・エメリーと結婚します。
このときブルースは24歳で、リンダ・エメリーは19歳でした。
翌年には長男が生まれ、1969年に娘が生まれています。
ついに俳優へ
空手の国際大会で演舞を披露したフィルムが、TVプロデューサーの目にとまり、本格的に俳優としてのキャリアをスタートさせます。
TVドラマ「グリーン・ホーネット」の、カトーという準主人公の日本人を好演したことで人気を博します。
その後TVドラマ「燃えよ!カンフー」を自ら企画するも、アジア人という理由で主演をすることが叶いませんでした。
1970年に人種差別が根強く残るハリウッドから、活動の場を香港に移します。
香港で主演映画「ドラゴン」シリーズをはじめ、現在我々が知る「ブルース・リー」としての活躍に繋がっていくのです。